
肩を組んで行こう
UWCの生徒は世界中からやって来ます。考え方がまったく違う人たちもいます。だが、どこからやってきても、どんな考えを持っていても、一つのことは同じ。
彼らは友だち、ということです。
僕は90年から92年という2年間をUWCで過ごしたのですが、それは世界的に激動を経験した時期でした。
一つはユーゴスラビアで、スロベニアとクロアチアが独立を目指して大変なことになっていました。僕のいたカレッジはイタリアとスロベニアとの国境に程近いこともあり、車で1時間も行けばスロベニアに行けましたし、そうした地域からの多くの友人と生活を共にしていました。そうした環境で、僕にとってUWCでの日々は、彼らの身に迫る切実な政治的激動を共有する経験でもありました。日本にいて新聞を読めば「世界では大変な場所もあるんだなあ」と思えど、実際にその場所で苦しんだり、怒りを感じている普通の人々の感覚を共有することはありません。17歳の僕は、確かにそこでしか得られない何かを感じていました。
しかし何より大きな事件は、そう、あの湾岸戦争です。あれはイラクvsアメリカの、そしてアラブvsイスラエルの戦いでした。そしてカレッジにはアメリカ人、イスラエル人、そしてアラブ諸国からの仲間が共に生活をしていたのです。毎日学校の掲示板には戦況が報告されていました。
「アメリカ空軍機がイラク軍事基地を爆撃、アメリカ軍機1機、イラク軍機4機撃墜」「イスラエルのミサイルが東エルサレムに着弾、死傷者不明」エルサレム出身の女の子が必死の形相で実家に電話をかける、そんなことが何度もありました。生徒全員で湾岸戦争についてディベートをしたりもしました。もちろん当事国の国民である生徒も参加して、激しい議論が展開されました。でもそこには、日々の共同生活で培われた「我々は仲間である」という暗黙の前提がありました。またそのころ、我が母国日本は、アメリカに金を出す、出さないでもめにもめ、結局最終局面までは何もできませんでした。何をすればいいのかは難しい問題ですが、日々危険にさらされている善良な市民を前に、金ごときで右往左往する日本。日本には当事者意識はないんだ。そう思えてとても悔しかったことを記憶しています。
そんな中、アメリカ陸軍による地上戦が開始された日、あるスペイン人の女の子から「地上戦が早く終わることを祈って断食をしよう」と言われました。
彼女達は地上戦が終わるまで断食を続ける意志を持っていましたが、医者には「3日以上はやってはいけない」と制され、残念だけど3日間、という話でした。僕はそう誘われて、正直乗り気ではありませんでした。「俺が断食したから戦争が終わるわけじゃないだろう」。よくある理想主義と現実主義の食い違い。でも、そう思いながらも、結局共に食を断つことにしました。
1日目、2日目はつらいものでした。なにしろ口にできるのは水とジュースのみ。でも仲間が10人くらいはいたでしょうか、彼らと声を掛け合って頑張っていました。3日目。今日で終わりだと思うと、多少は楽でした。でも戦争は終わる気配を見せません。まあそんなもんだよな、と悲しみながらも、意地で3日目も食わずに通しました。
そして翌朝、やっと食べれる、と眠い目をこすって朝食を取るデイルームに下りてゆくと、信じられないことが起こっていました。そう、地上戦は終結していたのです。皆の歓喜の声に、僕の目は不覚にも潤んでいました。もちろん断食と戦争終結は関係ありません。ただ僕と仲間の心の中では、それらは分かちがたくつながっていました。自己満足と言われてもいい、それでもこの感動を味わえたことに感謝したい。そんな気持ちでした。
高端正幸(AD90-92)
私のUWCでの思い出の1つはある10月の夜のことです。その日の夜は仲の良い友人4人と学校のすぐ近くにある港に寝ぶくろをもって泊まりこむことにしました。
10月といっても夜は冷えこむのでみんな精一杯の厚着をして、クッキーをピクニック気分でおしゃべりしたりして、UWCにきて2ヶ月たったその時初めて心からリラックスをして素直な気持ちになれました。8月末にきてつらいこと続きでブルーだった私が、やっぱりUWCにきてよかったーってほんとに思った夜でした。
その夜に見た流れ星のことはずっと忘れません。
横山 陽子 (AD 98-00)
東南アジアを含め、いろいろな国にいっていろいろなことを経験し、いろいろな人に会えたこと。これはあまりにも抽象的なので、具体的には
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ネパールでむらの子供たちに日本語を教えた
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ケニアで現地の子供たちといっしょに木を植えた。
など、ボランティア活動が多かった。
鳥養 珠 (SC
'95-'97)
PCを卒業して14年になりますが、数え切れない体験の中でいつまでも鮮明に残っているのは、友人たちと話したことです。夜、寮の廊下の片隅でとか、洗濯室の中でとか、なんとなく立話をしているうちに深い話になって仲良くなるきっかけになったことが多かったです。今また世界中にちらばっていても、再び会ったり連絡を取り合ったりすれば、その頃が昨日のことかのようにお互い話すことができます。そういう友情はもう簡単には築けない歳になって、あらためてPC時代の絆の重さを実感しています。
Satoko Lana Norimatsu (PC
'82-'84)
イタリア人のアンドレアは陽気な人気者。初めて会った人への彼の挨拶は"So, are you famous?" 皆思わず笑って友達になってしまう。食堂のピアノでジャズを弾く彼はカレッジの景色の一部だった。
アイルランド人のイアンは多才な芸術家。劇の演出、作曲、絵画、そして文学。彼が作曲し、ケニア人のクララに捧げた曲はあまりに美しく皆を泣かせた。そして深夜彼がホールの壁に描いた壁画は、消されてなお皆の心に残った。カナダ人のパットは、全盲だがとても独立心の強い少女。奉仕サービスでは山岳救助隊のメンバーとして活動、岩登りまで一人でこなしていた。エクアドル人のパオリーナはとても心の美しい
少女。母国の貧しい人達を助けるため医者になるという決意の下、日夜勉学に励んでいた。アンドレアやイアンとバンドで一緒に演奏したこと。山岳救助隊でパットやパオリーナと一緒に山道を歩いたこと...
こんなすばらしい人間たちと共に生活できたことがUWC体験の何よりの宝だ。
直樹 (PC '77-'79)
私のルームメイトは、一年目はドイツ人のクリスチァン、チェコ・スロヴァキア人(当時はそうだった)のダヴィッド、ウェールズ人(イギリス)のエドワードの三人だった。二年目はクリスチァン、ウェールズ人(イギリス)のハウェル、ロシア人のデニスだった。
国籍の異なる4人で、ひと部屋にベッドが4つ。お互いのベッドに腰掛けて夜遅くまで語り合った。
ガーナのクウェシは、弁舌家だ。彼を中心に熱心な話しの輪ができる。ひと一倍勉強しないと英語の授業についていけないので、遅くまで勉強部屋(Quiet
Roomと呼ばれる)にいる私と、ただ勉強好きの彼はQuiet Roomでもさまざまな議論をした。そして夜の(朝の)3時ころに、「腹も減ったしパスタでも食うか」という話しになる。そこで彼の少々怪しげだが抜群にうまいスパイスが登場するのだ。
友達のことを書き始めるときりがない...
有二 (AC '91-'93)
1994年の日記から〜2月12日
夜、ルームメートのアニーシャと話していたら、アニーシャの親友であるジュディが部屋にノックをして入ってきた。そして、ジュディはアニーシャに、
"Thank you Anisha."と言った。アニーシャが、
"For what?"と尋ねると、ジュディは、
"For everything."と言ってアニーシャに大きなハグをして、おやすみと言って部屋を出ていった。アニーシャは、
“How nice!"と言ってとても嬉しそうな顔をした。
祐子 (AC '92-'94)
今日は新しい1年生が来る。1年が過ぎ、あんなにまぶしかった2年生も今はいない。今度は自分たちが2年生として、さまざまな責任を負うことになる。
今夜は1年生たちと夜の散歩だ。真っ暗なブリストル海峡の水の上に、白い月が丸く光を落とし、その中をかもめたちが音もなく遠く舞っている。崖の上の短い草を踏みながら、灯台を過ぎて、そして明かりがなにもなく足元も見えない田舎道をたどりながら、話しがはずむ。
有二 (AC '91-'93)
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